医療?健康

CHANGEMAKERS #04 縁あって障がい者スポーツの世界に 小西 暢子さん

#004

今も思うのは、本当に全てタイミング。
自分のコントロールできないところで 繋がっていっているんだなって。

小西暢子さん

小西 暢子 さん

PROFILE

1967年 大阪生まれ

1990年 狗万app足彩,狗万滚球卒業(体育学専攻)

2018年 狗万app足彩,狗万滚球大学院(人間総合科学研究科博士前期課程体育学専攻)TIAS修了

大阪市長居?舞洲障がい者スポーツセンター勤務

東京オリンピック?パラリンピック競技大会組織委員会 スポーツ局 水泳競技副スポーツマネージャー(パラリンピック)を経て、現在は愛知?名古屋アジア?アジアパラ競技大会組織委員会(非常勤)クラシフィケーションマネージャー。

2006年、World Para Swimming公認PIテクニカルクラシファイアの資格を日本人で初めて取得した。

 オリンピックに続いて8月にはパリでパラリンピックが開かれます。狗万app足彩,狗万滚球関係者はパラリンピックで66個のメダルを獲得するなど、障がい者スポーツでも先導を行っています。そんな狗万app足彩,狗万滚球の卒業生で、パラリンピック大会で様々な役割を担っているのが小西暢子さんです。パラ競技大会の根幹である、選手のクラス分け業務(クラシファイア)の第一人者でもあります。競泳や水球をはじめ、幼少期から夢中になってきたスポーツでフェアネスを追求し、現場で選手を鼓舞し続けてきました。2024年5月に母校を訪問され、今のお仕事につながったルーツとご縁について話しました。
Q パラ水泳での活動についてお聞かせください。

 パラリンピック大会(シドニー?アテネ)等の代表チーム引率、強化指定選手合宿等での指導、国内/国際パラ水泳競技会でのクラス分け業務(クラシファイア)などに携わってきました。

 クラシファイアは、パラ水泳国際競技団体であるWorld Para Swimmingが公認する競技役員で、選手の障がいについて機能やその程度を評価し、競技するクラスを選手ごとに判定する業務です。例えば水泳では、片前腕欠損の人と、両腕がない人とが競うのは不公平ですよね。そこで、残存機能の違いが競技結果にできるだけ影響しないよう、ほぼ同じ程度の機能がある競技者をグループに分類して競技が行われます。このように分類することをクラス分けと言います。

 ロンドン2012パラリンピック競技大会では、パラ水泳チーフクラシファイアを、2014WPS欧州パラ水泳選手権でもチーフクラシファイアを務めました。また、国際クラシファイアを養成するインストラクターの資格も取得しています。国内では国内競技役員養成研修の講師、日本パラリンピック委員会クラス分け委員会委員も務めています。

Tokyo2020にて
(Tokyo2020にて)
小西 暢子さん
(ロンドン2012にて)
Q クラシファイアには、メディカルとテクニカルの二つがあり、小西さんはテクニカルを担当されていると伺いました。

 テクニカルクラシファイアは、水泳の泳ぎを見るというパートを主に担当します。国際大会では海外の選手のクラス分けをするので、英語でのコミュニケーション能力が必要ですし、障がいと泳ぎについての理解が必要とされる業務です。メディカルクラシファイアは、医師または理学療法士が、脊髄損傷やその他様々な障がいによる身体の機能について筋力や協調性、関節可動域などを評価します。テクニカルクラシファイアは、その評価手順を一緒に見て、その後メディカルクラシファイアと一緒に水中での機能としての泳ぎを確認していきます。ですので、メディカルクラシファイアとのディスカッションをするための知識も必要になってきます。

Q 小西さんが日本初のパラ水泳クラシファイアだったのですね。

 国際クラシファイアの取得を2006年に取得しました。資格を取得するための研修があるのですが、日本パラリンピック委員会(JPC)に助成制度ができるまでは、自己負担で行ったときもありました。
 ただ、今となっては、プライスレスなエクスペリエンスだったと思っています。研修は、その大会が行われているところなので、場所は色々ですね。私が行ったのは、カナダ、あとはチェコとデンマークに行きました。時差ボケの中でヘロヘロになりながらでしたが(笑)。

 クラシファイアの活動は、障がい者スポーツセンターでの仕事を職場に調整をお願いして行かせてもらっていました。障がい者スポーツセンターでは、いわゆる9時17時、週休2日の一般的な仕事ですが、クラシファイアはボランティアとしての活動です。

 仕事とクラシファイア活動との両立は大変な時もありましたが、クラシファイアとして日々いろいろな選手を見て、こういう障害の人はこのぐらい泳げる、という例を見て、学ぶことができるので、自分が現場(障がい者スポーツセンター)に戻って指導するような時でも、「いやいや、できるできる」と指導者として前向きになれましたし、教え方の工夫に繋がるヒントをもらいました。そういう意味でも、クラシファイアの活動は面白かったですね。

Q 活動の際、大事にしている考え方はありますか。

 フェアであること、これがとても大事なことだと思います。

 私は、ずっとスポーツが好きで、子どもの頃から、近所の子たちが放課後に集まって、6年生のお兄ちゃんから1年生、もしくはその弟の幼稚園生も一緒に、プラスチックのバットで野球するみたいな、 昭和の古き良き雰囲気で、毎日毎日野球をやって育ったんですよね。

 その時から、今のがアウトとか、セーフとかも、みんなの目で決める。半分に分かれればじゃんけんで決めるとか、誰もが納得する形にするとか、ズルはいけないとか。競泳をやっている時は、単純にタイム勝負なので、その点はクリアでした。水球をやっている時は審判によって左右される部分もありますが、やはりフェアネスが大事です。

小西 暢子さん
(Tokyo2020の水泳競技運営の仲間と)

 国際クラシファイアとしてプールサイドや競技会場にいる時、自国の選手が優勝したからってガッツポーズをしたり表彰式で国歌を歌ったりはしないんですよ。してはいけない。あなたは全ての国のためにいるっていうスタンスになるので。東京2020大会で運営側として副スポーツマネージャーをしていた時は、練習プールでルールを守らない国があったら対応に行き、怒っている団長が来たらまた対応に行く、というようなことをやっていたのですが、その時も同じ「全ての国のため」という立場で。最終日の最終種目で木村敬一選手が勝った場面を見てもちろん感動はしたものの、コロナ禍の中で決勝までたどり着いた選手たち、もう本当にこの中の誰が勝ってもいいと強く思ったんですよね。

 クラシファイアをしていたから尚更そう思ったのかもしれませんが、誰が勝ってもそれでいいんだ、という境地に辿り着いたんです。

 日の丸をつけて選手の世話をすることは誇らしい活動だと、今でも思うのですが、クラス分けや競技運営の現場で、こうして自分が大事にしていることを大事にすることに、エネルギーと時間と知見を注げるのはいいなと思っています。そういう気持ちは、クラシファイアの資格を取らせてもらってからさらに強くなった気がします。

Q 子どもの時からスポーツがお好きとのことですが、水泳もその頃からやってこられたのですか。

 はい。当時はほぼ全ての子供がスイミングに行くような時代だったので、どこの町にもスイミングスクールがありました。私は小学校3年生の3月ぐらいに選手コースに上がり、そこからずっと競泳選手をしていました。もちろんオリンピックに憧れながら泳いでいました。日本選手権に出るか出られないかといった程度の実力でしたが。野球も好きだったので、もし中学校や高校にソフトボール部があったら、多分ソフトボールをしていたような気がします。

 しばらく競泳の選手を続けていましたが、大学に来る時はもう競泳選手としては若干しんどい思いをしていて、また受験勉強に打ち込むため、受験期は半年くらい水泳をしていませんでした。ですので、自分の中では区切りがついていたのか、新しいことをしたい、球技を何かやってみたいと思っていました。そういう巡り合わせで、かなりすんなりと水球を始めたような気がします。一般入試で合格した後、入学前の春休みに水泳の先輩から電話で春合宿のお誘いがあって、そこから水泳部に入って水球を始めました。そこで、水球の先輩のまゆみさん(体育系 齊藤 まゆみ 教授)にも出会いました。

 個人競技と団体競技と両方経験できたのは、狙ったわけではないですが、良かったと思います。組織委員会にいるときも、オリンピックのチケット、水球だけ買っていたんですよね。実現はできませんでしたが、今でも、やりたいことリストの1つは水球のヨーロッパ選手権を見に行くことです。

Q 大学時代は水球に熱中されていたのですね。

 そうですね、結局水球しかしていないという感じでした(笑)。

 狗万app足彩,狗万滚球は昔から水球男子がスペインとの国際交流を行っていて、女子もというので、OBの荒木先生に引率してもらって、オーストラリアとニュージーランドに行きました。それで、ますますスポーツって楽しいなという気持ちが自分の中で大きくなりました。大学4年の時に、日水連が女子の水球のジャパンっていうのを 初めて作ったんですよね。当時オリンピック競技ではなかったのですが、初編成の女子ジャパンにたまたま選んでいただいて。卒業する間際だったと思いますけど、海外遠征に行かせていただきました。

 アメリカ生活も経験しました。これは、父親の勧めでした。父は、高校に行く前に英国領事館で働いて英語を身につけ、大阪市役所勤務の際には、パラリンピックの父とされるルードウィヒ?グッドマン博士が来日し、そこで通訳する機会もあったそうです。「大学卒業後に1年だけ英語の勉強をしたいならサポートするが」と言われた時、「もちろん行く」と答えました。サンフランシスコにある父のペンフレンドの家に居候する形で、UCバークレー大学の留学生のための英語プログラムに1年通いました。現地では、海外遠征で知り合った選手のいるバークレーチームの卒業生チームに入れてもらい、そこでも1年水球をさせてもらえる機会に恵まれました。しかしまだ、障がい者スポーツとの接点は何もないままでした。

Q 障害者スポーツとの出会いについて、ぜひ教えてください。

 1997年に父を通じてある話がありました。2008年のオリパラ招致を目指していた大阪市が舞洲に新しく作る障がい者スポーツセンターで職員募集があるというのです。英語が少しできるんだったらどうだ、と、ある人から声をかけていただいたと。そんな経緯で応募しました。これが、私のパラスポーツへのきっかけです

 職場は、2つのスポーツセンターで、舞洲と長居を数年ごとに異動する形で勤めていました。 水泳や卓球などの指導、大阪市の障がい者スポーツ大会の企画運営、全国障害者スポーツ大会の引率など、18年間にわたりいろいろと経験しました。時期によって指導が濃い時期もあったり、企画が濃い時期もあったり。最後の方は、車いすバスケットボールの国際親善大会の企画運営の割合が大きくなっていきましたが。

 その大阪の障がい者スポーツセンターに、日本パラ水泳連盟の事務局が当時あったんですね。そのご縁で遠征に行ってみないかという話になりまして。事務局仕事や遠征など、事務局が他へ移ってからも、連盟とは関らせてもらい、シドニー、アテネは日本代表チームのコーチ兼総務で参加しました。英語が少しできたことから裏話も含めていろんな場面に立ち会う機会に恵まれたのはラッキーだったと思っています。インターネットなどない時代の遠征では、睡眠時間が2、3時間という時もあったので、「もうやめてやる!」などと思いながらやっていたこともありましたが、通常なら知らないままのことも知り得るチャンスをいただけたので。

Q 東京大会ではどのようなお仕事をなさいましたか。
小西暢子さん
(狗万app足彩,狗万滚球訪問時、体育ギャラリーにて)

 2016年から東京2020の組織委員会に入って、スポーツ局でパラ水泳の競技運営に携わりました。大会を運営する際の受け皿的な組織委員会側の人間を、2016年から2021年までやりました。競技運営に必要なITO(国際審判)が何人なのか、国内の運営スタッフが何人必要、ボランティアはどういう人材が必要か等々、国際競技団体のマネジメントチームとの調整や組織委員会内の様々な部門との調整に追われた日々でした。コロナ禍も相まって本当に特別な経験でした。

 今年から愛知?名古屋アジア?アジアパラ競技大会組織委員会でのお仕事が始まりましたが、アジアパラも総合大会で、パラリンピック本大会では実施しないクラス分けが実施されます。アジアパラ競技大会は18競技が実施されるのですが、各競技のクラス分けについて必要な調整を横断的に行うのが私の役割です。東京2020で経験したこととはまた異なる役割、日本ではまだ誰もやったことなのない初めての業務、新たなチャレンジです。

Q 今のお仕事につながる大きなきっかけは、お父様からのお話だったのですね。学生の頃、アメリカ行きの勧めに対して迷わず決断されたというエピソードも印象的です。

 学生の時は、本当に何の根拠もないですが、自分は将来なんでもできると思っていた気がします。今考えるとすごくバカですよね。でもあれが若さなんだなっていう気がします。

 4年生の時に、ちょうど水泳連盟が水球の女子のジャパンを作って、その遠征に行かせてもらえましたし、遠征で出会ったサンフランシスコベイエリアのチームの選手にうちのチームにおいでと言ってもらった。そんな繋がり方だったので、本当に全部点がうまいことつながっている感じがします。流れなのか、風が吹くというのか、ちょっと表現は難しいですけど、そういう風が吹いていたとしか言いようがないなと。

Q 障がい者スポーツセンターでの勤務から東京2020パラまでに至る話も、ゆるやかにつながっているように見えます。

 そうですね。今思うのは、本当に全てタイミング、勝手にって言うとおかしいですけどね、自分のなんかコントロールできないところで繋がっていってるんだなと思います。入職前は障がい者スポーツって何?という状態でしたが、もう本当に、縁というのはこういうことを言うのかなと思います。

Q 改めて、狗万app足彩,狗万滚球で過ごした時代をどのように思い返されますか。

 狗万app足彩,狗万滚球の学生は、チャラチャラしたところがないというか。本当に質実剛健で。大学の中では体専?芸専はちょっと、ゲテモノ扱いされていましたが(笑)。でも、とても良かったです。

 筑波を選んだのは、大阪の実家から通いたくなかったから。同じコミュニティにずっと小中高大というのは嫌でした。それからもちろん、スポーツの勉強がしたかったからです。嘉納治五郎先生のことは入学してから知りましたが、水泳を学校で習うのは良いことだと思います。学校で水泳を習う国ってほぼないですよね。水泳や長距離走を含んだ体育教育の基礎を作った人が狗万app足彩,狗万滚球の源流にいらっしゃることを、誇りに思います。自分がそこの卒業生として値するためにも、本当に、常に頑張らなきゃなと思います。

小西暢子さん
(TIAS修了時にメンバーと)

 大学生活は楽しかったですね。全国津々浦々から来た同級生がいる。先生になりたいという軸が固まっている人もいれば、スポーツでものすごく秀でた人もいる。同級生には桜井純子さんという、ロサンゼルスオリンピックに出た競泳選手がいました。他にも、サッカーの井原正巳さん、中山雅史さん、バレーボールの中垣内祐一さん、スピードスケートの河合季信さん、ダンスの平山素子さんなどが同級生にいます。オリンピック選手も、私のように一般で入った人も、他の学部から運動部に入った人も、いろいろな人がいるという環境が、本当に良かったです。家から通えないところに行くと自分決めた、その時のチョイスは間違っていなかったなと思います。本当に、いろんな人がいて面白かったんですよね。自分の世界がすごく広がった、濃い4年間だった気がします。当時、なりたいものも何にもなかったし、今もないのですが、自分で自立して生きていくっていうことだけです。今それができているので。他は好きにしたらいいんじゃないかって思っています。

 TIASでの1年半もまた色んな人と出会えて自分の考えや世界を広げてもらった、学部生時代とは異なる狗万app足彩,狗万滚球での時間は自分のスポーツに対する価値観と向き合ういい機会になりました。

Q 最後に、在学生や狗万app足彩,狗万滚球を目指す高校生の皆さんへのメッセージをお願いします。

 在学生の皆さんは、今、目標にしている職業や将来に向かって精一杯頑張っていると思いますが、うまくいかない時や目標が叶わない時があっても大丈夫だよと伝えたいです。私の好きな言葉に、「人間万事塞翁が馬」というのと、もう1つ、ダライ?ラマ14世の、"Remember that sometimes not getting what you want is a wonderful stroke of luck."という言葉がありまして。その時手に入らなくてすごくがっかりするかもしれないけど、それが回り回って幸運の始まりなのかもしれないよっていう。私の人生は、まさにそういう感じなので。がっかりしたこともありましたが、パラスポーツに出会えましたし。最初から諦めるためにそういう考えでいてはいけないんですけど、 ものすごく残念なことがあって落ち込んで、しばらく腐ったり、うまくいかないなと思ったりしても、それがあるからこそ、出会うことってあると思うので。

 これは、球技をしてわかったことでもあります。ちょっとパスミスやシュートミスがあっても、それがチームに気づきをもたらすとか。ラグビーなどもその連続だと思うんですけど、思わぬ展開になったり、チームがそこでハッと気づけたりすることがある、というのは球技からたくさん教えてもらったような気がします。どうしても、最後にシュートを決める人が注目されがちですが、 その前にパスした人がいて、そのパスした人にパスした人がいて、でもそれは偶然の違うパスミスから起こったことかもしれなくて。人生もそんな感じのことは所々で残念ながら起こってしまうので、自分の予定や目標通りには進まない。だからうまくいかないことがあっても大丈夫だよ、と言いたいです。

Q 今日はお時間をいただき、ありがとうございました。

[聞き手 広報局職員]